2018年度 日本史部会発表要旨

1.永宣旨料物の便補について

                                  広島県立広島商業高校 星野 公克

 「神社仏事永宣旨物‥」などと表現される「永宣旨物」(以下、永宣旨料物と総称する)とは、天禄元(970)年の太政官符による賦課で始まり、定められた国々に特定物品の特定量を期日指定して進納することを、恒久的に定めた宣旨により定められた料物のことである。
 一例をあげると、延久元(1069)年以後、代々の天皇の玉対安穏を祈願するために始められた公家三壇御修法の料物は、永宣旨により負担する国々が定められていたが、12世紀中葉には難済化し、月毎に担当国と所済数を定める料国制が採用され、やがては便補保が設定されて料物が賦課されていった。
 しかし、平安後期から鎌倉期にかけての永宣旨料物確保の全体像については、いまだ具体的に明らかにされているとはいえない。本報告では、公家三壇御修法・御斎会・仁王会・季御読経の料物を中心に考察することにより、永宣旨料物をめぐる一般的な傾向を明らかにするとともに、便補の対象となる所領「保」の問題について考察していきたい。
本報告の詳細については、『史人』6号「永宣旨料物の便補について」・『史人』7号「備後国三谷保について」(公家三壇御修法の料物を分析対象としたもの)を参照。

 
2.戦国大名毛利氏の防長両国支配の展開過程

                                           広島大学 水野 椋太

 戦国大名毛利氏の防長両国支配については、1970年代後半に市川経好を首班とする山口奉行に着目した松浦義則氏と加藤益幹氏による研究成果が存在する。両氏の研究は山口奉行の成立から展開過程に言及する通時的な視野に基づき、毛利氏の防長両国支配を考察している。その後90年代に入ると、和田秀作氏による史料上に見える山口奉行についての指摘や阿武桂子氏による長門内藤氏に着目し、山口奉行の相対化を試みる研究など、個別的な研究成果が積み重ねられ、新たな事実の発見などが行われていった。
 一方で、松浦氏や加藤氏が山口奉行に着目し、毛利氏の防長両国支配に言及した研究に関して、『山口県史』などの刊行状況や90年代の研究動向を考えるならば、支配に関与した人物や展開過程について改めて再検討することも無意味ではないと思われる。
 そこで、本報告では、市川経好を首班とする山口奉行を基軸にその成立から展開過程を考察し、毛利氏の防長両国支配の歴史的展開について明らかにする。

 
3.戦国大名毛利氏による伯耆国大山寺の造営事業
   ―鉄製厨子内地蔵菩薩像の鋳造を中心に―

                             鳥取県立公文書館県史編さん室 岡村 吉彦

 中国地方最高峰大山の中腹に位置する角磐山大山寺は、地蔵菩薩の垂迹である大智明権現を中核とする寺院である。この寺院に承安2年(1172)に伯耆国武士紀成盛によって寄進された鉄製厨子が現存し、国重要文化財に指定されている。
 寄進当初、この鉄製厨子には一体の金銅地蔵菩薩像が納められ「秘仏」と呼ばれていた。しかし中世以降の数度の火災によって、仏像は焼失し、厨子も激しく焼損している。
 天正10年(1582)、毛利輝元は大山寺の造営事業に着手した。棟札銘によれば、このときの主要事業の一つに焼失した鉄製厨子内地蔵菩薩像の鋳造がみえる。しかしその具体像については、これまで全く言及されたことがない。
 本報告では、大山寺に残された棟札を基礎資料として、その内容を具体的に分析し、毛利輝元が鋳造した地蔵菩薩像を復元するとともに、毛利氏による大山寺造営事業の実態に迫ってみたい。


 4.毛利氏領国における近世大名家臣団の成立について
    ―熊谷元直粛清事件の検討を通して―
                     
                                          毛利博物館 柴原 直樹

 多様な成立過程をもつ戦国大名のうちでも毛利氏は、国人一揆の主導者が権力を集中して大名化を遂げた典型とされる。その出自ゆえに、国衆と呼ばれる傘下の有力国人領主層の統制に苦しみ、その克服は、統一政権への服属後に果たされると理解されている。
 こうした理解は、大筋では正しいと思われる。しかし中世の複雑な政治過程の中で、国人領主などの在地領主層が、自らの家と所領を守るため、さまざまな契機によって作り上げた盟約関係や、あるいはそれを基盤とした自立への志向性が、大名権力によってどのように克服されていくかについては、今なお必ずしも明らかにされているわけではない。
 よって本報告においては、近世初頭の萩藩における有力国衆の討滅事件として、古くから知られてきた、毛利輝元による熊谷元直粛清について検討を加え、この事件が在地領主連合の近世大名家臣団への転化という視点からは、どのような歴史的な意義を有していたのか、改めて明らかにしたいと考えている。 

 
5.遊所を構成するネットワークの様相について
    ―長州藩の浦の遊所を対象として―

                                          九州大学 川邊 あさひ

 近世の遊所は、その地域のみで完結するものではなく、遊女斡旋業者などを介して遊女の供給元となる地域、あるいは遊女の仕替などを通じて他の遊所と、関係性を構築していた。言い換えれば、そういった関係性の上に遊所は存立していた。
 報告者は、これまで長州藩の浦に存在する遊所を対象に、研究を行ってきた。しかし、他地域との関係や遊所間のつながりについては未検討であった。遊所を構成するネットワークが、いかなるものであったのかを明らかにすることは、その遊所の特質、また遊女が置かれていた立場を考える上で必要な作業であろう。
 そこで、本報告では、遊女の請状や明治初年作成の遊女渡世許可願など、多様な史料を用いて、①長州藩の浦の遊所が、遊女の供給や仕替を通じて、どのような地域と関係性を構築していたのか、②①の関係性が、遊女にもたらす影響はいかなるものであったのか、以上二点について考察していく。

 
6.明治維新期地域社会における私塾教育の役割
    ―備後府中晩香館を対象に―

                                             広島大学 曽原 葵

 本報告は、江戸時代末期から明治初期を生きた知識人五弓雪窓とその私塾晩香館に着目し、明治初期において、地方私塾教育が果たした役割について明らかにするものである。
 1780年代末頃から私塾の開設は活発化していく。その勢いは衰えることなく、明治になっても多くの私塾が開設された。しかし、公教育の整備に伴い、私学として存続したものを除けば、明治20年代には衰退してしまう。だが、明治初期には、公教育では満たすことの出来ない、様々な教育ニーズの受け皿として私塾が大きな役割を果たしていたとのではないかと考えられる。
 そこで、晩年を備後府中地域で過ごし、神職及び教育者として活躍した、五弓雪窓とその私塾晩香館を対象とし、五弓の日記である『晩香館日誌』を主に用い分析を行った。明治初期における私塾研究は史料的な制約からも、その実態に迫るものは少ないため、『晩香館日誌』は大変貴重な史料となりうる。
 以上の検討から、明治初期の地域社会において中等教育を担った私塾が、近世的私塾にみられる特色である人格修養の場という性格も持ちながら、高等教育機関への進学やその後の進路においても重要な役割を果たしたという点を明らかにしていきたい。